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-----お似合いの天気
遠雷が聞こえていた。遥か頭上の空の中で。
重たくてどうしようもなくて、もう滑り落ちてしまうよ、と叫んでいる。
もう、晴れとも雨ともつかないこの均衡を、保てない。
「雷、鳴ってるね」
「先輩、カサ持ってきてます?」
「ううん」
じゃあ早く帰らないといけませんね、と黒沼青葉が言う。彼は誰の所有するものかも知らないビルの屋上の、劣化した柵に前のめりに凭れて下を見ていた。
「何か見える?」
「別に…。普通ですよ。……あ、雨、降ってきたみたいだ」
対して楽しそうでも、詰まらなそうでもなく、青葉はアスファルトを歩く人々をじっと見ていた。
ぽつ、ぽつ、と気まぐれ程度にほほを濡らしていた雨が、小雨のような密度になってきた。帝人は雨を確かめる為に開いていた掌をそっと下ろし、青葉に倣うように地上を見下ろしてみる。
視界のそこここで傘がジャンピングして開く。さっきの雨と同じペースだ。始めの内は窺うように気まぐれで、今となっては我先にと傘は開く。
一層薄暗くなった所為か、車のヘッドライトが道を照らすようになる。コンビニから出てきた人が空を見上げて首を振り、雨具を着こみ始めた。バイクに乗るのだろう。
ビルの屋上という高みから人々を眺めると、不思議な気分になる。人影はやたらと小さく、音も言葉も届かず、表情も見えない。動きだけで感情や状況を判断するしかない。
皆足早に動いている。ここを去るしか方法はない、という様に。
「このまま雨が降り続くと、この街って水没しますかねー」
「僕ら降りられなくなっちゃうじゃない」
「降りる方が危ないじゃないですか。水没しちゃうんですから」
「んー…」
ガラゴロと、唸るように雷が鳴っている。
ふとこれってスーパーのカートの車輪が立てる音とちょっと似てるかな、と帝人は考えると訳もなく笑えてきた。思考回路が妙に所帯染みて来ているようだ。尤も買うのは水と総菜系と少しの菓子程度なのだが。
アパートにある電化製品は冷蔵庫のみで、そこは水と栄養ドリンクくらいしか置いていない。
顔に少し出ていた笑みが苦笑に変化するのが自分でも分かり、それを慌てて隠すように帝人は青葉を見やる。
青葉もまた、笑っていた。ちょっと気だるげに、どうでも良いことを笑うつもりで笑っている。そんな風にも見える。
「あれですね。ちょっと神様の気分が味わえますね、これ」
「……そう? そうかな…」
その言葉に笑みは一気に冷めて、帝人は少し不安そうに目を細めた。下で足早に流れていく景色を眺めていると、どちらかというと取り残された気分になる方だ。
あの流れはどこに向かっているのだろうか。見極めないと。そんな風に、気持ちが少し追い詰められていく。
ざぁ、と。
嬲るみたいにいきなり風が雨粒を連れてくる。
「わっ」
「おっと本降り」
屋上と言う普段よりも高い所に居る所為か、雨粒は風に揺られ妙に不規則だった。
隣で鞄の隅から折り畳み傘を召喚する青葉を帝人は丸くした目で見た。傘を持っていたのなら早くさせばよかったのに。青葉の髪も肩も、もう、濡れそぼっていた。おそらく帝人本人もそうだろう。
はい、と青葉は可愛らしく傘を帝人に差し出した。細い傘は、風に逆らう様に差し向けると壊れてしまいそうだ。
「悪いんですけど、そこの階段まで連れて行ってくれますか? そしたらこの傘を先輩に渡して帰りますから」
「青葉君はまさか濡れて帰るつもり?」
「いやぁまさかー!はは。 誰か暇な奴らを呼ぶなり、傘を買って帰るなりしますから」
そこで気が付いたように青葉は笑って帝人に謝った。
「今このまんま車持ってるやつ呼んでも良いんですけど、先輩が今どこのネカフェに居るのか知られるのも何かなーと考えまして。帰りは別々の方が良いんでしょう?」
「気を使ってくれてるの? 御免ね、青葉君」
「いえいえ」
ひらひらと手を振りながら青葉は微笑む。天使のような笑顔にも見えた。
「じゃあ先輩。風邪引かないでくださいね」
「それはこっちの台詞だよ。御免ね、有難う」
地上へと続く階段を一歩踏みしめて去ろうとする青葉を見つめながら、このまま雨がいつまでも降り続き地上が水没してしまっても、彼なら平気で溺れない道を見つけられるのだろうと分かる。彼はきっと、遭難なんて馬鹿な真似はしない。
押しつけられた傘を大事に握りながら、帝人は呟くように彼の名を呼ぶ。
「あ、泉井…くん」
……ゆっくり、慎重に振り返る青葉に、帝人は笑って言う。
「また連絡する。携帯の充電ちゃんとしておいてね」
会釈程度に頷いて、青葉は背を向ける。
カン、カン、カン、と階段を降りる音が、雨の中に微かに響いていた。
酷い雨になってきた。
帝人は傘を借りて良かった、とため息をつく。青葉君はどうやって帰ったのだろう。ブルースクウェアの誰かに迎えに来てもらったのか、それとも傘を買って帰ったのか。
濡れて帰った訳ではないことを祈る。彼はそんなまぬけな行動はとらないだろうと、思ってはいるのだけど。
階段を下りていく青葉の後ろ姿を思い出して、帝人は左手で持った傘を握り直す。右手の携帯電話の感触を確かめてみて、考えてみた。
―――もし、僕がこのまま遭難したとして。
この携帯電話で誰に「助けて」と伝えるのだろうか、と。
そして少しだけ笑って、携帯電話を鞄へと仕舞った。いくら防水仕様だからと言って、むき出しにしておくには気が引ける。携帯電話は大切にしなくてはいけない。これは弱い、愚かな自分が、頼るべき武器なのだから。
―――きっとこのまま遭難しても、誰にも助けを求められない。
自分の中にある答えを噛み締めるみたいに引き出して、帝人は借りた傘を頼りながら歩き出す。
早くも水たまりとなった雨が少し、邪魔だった。
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