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何かの本質について話をする臨也さんはとても楽しそうで、でもその本質自体を嘲っているようにも見える。
皮より皮の中身が大切、建前よりも本音、反射よりも感情、現実よりも真実。
でも皮も建前も反射も現実も、存在しなければその下のものに辿り着く意味がまるで無い。
臨也さんはきっといつもリンゴの皮むきをしている様なものだ。皮が無ければリンゴは痛む。リンゴが赤く色付くのを待ち、皮をむくスリルを味わいながら、食べられる部分に辿り着く。すっかり裸になった実を、つついて切り刻んで落としてぐしゃぐしゃに踏みつけて、もう誰も手がつけられなくなったら「ああ勿体無いね」と笑う。
「今、君がぐしゃぐしゃに潰れてしまったね」
それを潰されたものに聞かせてほほ笑むんだろう。
彼が真実や本質や現象について話す時、帝人は何時も戸惑うし、迷う。
どちらを優先しようかと。
彼の話す真実や本質やらを聞くか、それとも話す彼自体を見るべきか。
同時にこなすことは難しい。
彼はいつも愛情と嘲りを同時に存在させているのだから、それだけで帝人にとっては称賛の対象だった。
彼はいつも口元に笑みを浮かべ、目だけで僕を見下して囁く。
「好きだよ、帝人君」
さて、どちらを信じるべきだろう。
言葉か目か。
臨也がどちらも便利なツールとして利用していることを知っているから、帝人はいつでも迷わなくてはならない。迷ったままでは返事も出来ず、帝人はただ立ち尽くすしかない。
そんな様を楽しそうに見る臨也のその行動が、帝人はいつも、いつまでも、理解出来ずにいる。
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生真面目な帝人君。